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20年、高校生と格闘しています。
そうした経験からこれまでもお話させていただいたように、急激に社会やそこに住まう人々の「世界」 に対する「社会」に対する、「自分と言う人間」に対する感覚が変わって来ていることを感じます。 無論、私自身が「格闘する相手」との年齢差が上がっていることは否めませんし自覚もしています。 このジェネレーションギャップを素直に受け入れ、「全てはそのせいだ」と決めつけることができれば もっと心穏やかでいられるのやもしれないと感じてもいます。ただ、、、無理。 かくして子供達は本当に自ら「考えること」をやめてしまったのか。 一番強く感じるのは、私自身が高校生にとって「当然知っているべき情報」を彼らが知らない、興味もないという事実を突きつけられた時です。美大なんて=ところに行きたがる高校生なのですから何かしら、誰かしら、好きな作家やデザイナーがいたり好きな作品、デザインものやメーカーの好みがあったりするモノだろうと言うのが私の「当然の情報」であり。彼らの興味の対象であるだろうと思っているのですが、どうやらそれは遠い世界のお話らしいです。 嫌だけど努力はしないといけないらしい。他に考えつかないからやっている。。。。そんな感覚。 知りたいという欲求や出来るようになりたいという願望はどこへ忘れ去られたのでしょうか。 私の高校時代にも無気力で世をすね、社会や大人の世界を色眼鏡で見る子供は大勢いました。 それでも「だからどうした?」という情報だったとしても「誰が喧嘩が強い」「かっこいいアパレルメーカーはどこ」「人に自慢し、かっこいい、センスがいいと思われる音楽は何」など、社会に出る際、それで飯を食うネタではないにしても社会の情報戦のミニチュア判が友人同士で行われていたように思うのですが、これだけコミュニケーションが不足し下手な子供達ばかりになると「知らない」 ことがむしろデフォルトになり、「知っている」ことに何らアドバンテージを感じない、、、なんて 感覚が一充満してしまいます。今がまさにその状態。 好きな音楽も、映画も、好きなタレントすらおらず、全てが「嫌いじゃないけど好きってほどでも」 状態です。 「この子達は事故欲求と言うものはないのかしらん」 思わず考えてしまいす。 実際「それは嫌だしやりたくない」という言葉は聞けても「○○がしたい。××が好き」という言葉はついぞ聞かれなくなりました。嫌い、、、という言葉や意見も聞かなくなって久しい気がします。 それは子供達に蔓延する「言い争いたくない」感覚、それがそうさせるのでしょう。 好き嫌いを云々するのは「意見の交換」であり「争い」ではないことを彼らは自覚出来ていません。 なんだか論旨が分からない文章になってきました。後日、まとめてみます。 #
by artnova
| 2012-08-04 18:04
確かに「将来に夢を見れない」という言葉に対して強く反論できる要素が大人の私にも上手く見つける事が出来ません。ベビーブーム後期に産まれた私の世代はとにかく競争というのがキーワードであり、
保育園でも小学校、中学校でも勿論高校でも「学力や体力、知力、人柄までも」が人と比べられる尺度であり、その優劣が全員を「上下」に振り分けていたように思います。 「努力する事で上へ」。「努力しなければ下へ」。 人の人生の満足度は本来、個々に「何をして幸せか」が別々に有るはずなのに特に社会的な地位や経済的な裕福度が尺度の大きな部分を占めていた時代。必然的に「生きるために努力をする」「そうでないと負けてしまう」という強迫観念にもにた感覚が社会全体の中に有ったように感じています。 では私の時代、また私よりも前の時代は今と比べて「夢を見れたか」というとそれはまた別の問題のように感じています。具体的に芸大デザイン科の倍率は45倍あり、私の少し下の世代では60倍の倍率で入試が行われ、望んで、無尽蔵の努力をして、周りの誰よりも上手くなったと自覚しても尚、芸大は遥か雲の上の存在であったと思います。受験生は1日の大半を受験対策に費やし、睡眠時間を3時間に削り、全ての時間を学科と実技に充て、眠気をカフェインの錠剤を飲んでしのぎ、、、して立ち向かった。それでも意中の大学へは合格できず、まったく違うジャンルで進学したり、生計を立てたり。希望する事を体を壊すほど努力して手にしようとしてもかなわなかった時代。 そういう経験からでしょうか、「望んで手に入れればほとんどが手に入るだろう現在」を羨ましく感じたりもして。 もっと前の世代。段階の世代の少し下の世代でも現在同様、政治的に不安定だったり安保がらみで「日本はダメになって行くのでは?」とみんなが不安になっていた時代もまた、将来を悲観する要素が満載だったはずですし、戦中戦後は? 言い出したらキリが無いですけど^^; 私の父は戦中生まれで、貧乏な小作農を営む一家の長男として産まれました。 兄弟は2人の姉と2人の妹。祖父は父が13の時に他界し、祖母と4人の女兄弟を中学もろくに行かず、父が働き、支えて来た苦労人です。 明日食べるものも無く、毎日腹を空かせてそれでも働き続け、妹二人を短大まで進学させた。 自分は「学が無い」とコンプレックスに感じているようでも有りましたが、何より自分のやりたい事をやろうと思っても状況が許さなかった訳ですから仕方の無い事です。 そのかわり、向学心は極めて高くニュース報道番組やNHK教育の自然科学番組は欠かさず見て自分なりに勉強をしているようでした。若い頃、鉄工所勤めの最中に溶接の火花で片目の視力を失い、自動車の免許すら取らずじまい。 そうした父の影響でしょうか、出来る努力をせずに自分を蔑むだけで終えてしまう、、、なんて事が私の価値観にはまったく持って無かったりします。 時代が、世代が、社会情勢が違う。 その事と自分がぬるま湯につかり続けることは多分、違う次元の問題ではないかと思うんです。 #
by artnova
| 2011-04-27 14:37
ついつい愚痴をこぼしてしまうのは自分が年をとった証拠。むむ。
少なくとも特定の方向を見て自分の将来に関係する大学受験を志して学校外で活動をはじめようと する受講生たちなのだから「もう少し前向きに考えませんか?」と愚痴まじりに思ったりする。 私自身にも記憶が有るが、過度な「努力」を「格好悪い事」としてしまう10代中盤の子供たち。その 価値観からか、はたまた競争ということから自分も周りも「無縁」を装う環境のせいなのか、人と比べられる事を極端に恐れる子供が増えているように感じています。 そのくせ、なまなかな「自己嫌悪」だけを長く長く引きずってしまい「一生懸命やる」ということと 「自分なりに悩んではいる」ということをイコールだと錯覚しているようでもあり、前に進む力は 5年ほど前と比べても随分弱くなったように感じ、心配になったりもします。 以前にも何処に書き記したように思いますが、アートノバの1年間のカリキュラムや年間課題数は以前と比べ大きく変化しました。端的に言えば「楽なカリキュラムしか組めない」状況です。 確かに誰でも入れる大学は増えはしました。それでも都内にあるいくつかの私大(いくつかの専攻)や芸大受験は難関であり続けています。に対して受験生の精神的な強さは年々無くなって来ている。 目標としたい志望校の受験レベルとの学科、実技への今現在の自分のポテンシャルとのギャップは大きくなる一方なのに、さらにそのギャップを埋める努力が出来ない、、、、となると、必然的に志望校のランクを下げない限り大学入試は突破できない事になります。 無いものねだり、、、という言葉が当てはまるかどうかわかりませんが、近年の高校生に接し、一番強く思うのは、「欲しいものが有るのに誰かが優しく与えてくれるのをいつまでもじっとこらえて待ち続ける。それを自分で手にする努力での苦痛よりも自虐的な何もしない自分を蔑んでいる苦痛の方を楽だと感じる」という事です。 好きな事として積極的な選択をし、美大受験に挑もうとする受験生ですらそうなのですから、特に将来の目標を自ら立てる事も、周りからそれを迫られる経験もない子供たちは自分の裁量で「何か大事な決定をし、自分で決めた事に責任を持つ」ということが上手く理解できていないのは当然の事のように思います。 #
by artnova
| 2011-04-27 14:09
何か、いろんな事柄の事後報告的な文章が多くなってしまったように思い、反省。
もう少しブログ(日常的な書き込みってことなんだろうけど)らしく、思うところをたまには書いてみたいと思います。 昨今、高校生を相手にしていて特に強く感じるようになった事のひとつに 「自分で考え、判断し、行動する」 という最も単純な連動するシステムが出来上がってない「幼さ」を感じるという事が有ります。 特に、自分で考える、、、という事をせずにその都度周りを充てにする傾向は強く、実際には 私どものような業種で、私のような立場で高校生に接する際には「教える」行為でお金をいただいている訳ですから、質問されれば勿論、それが何度目かの「同様の質問」でもお答えする義務が有りますが 度を超えているように感じ、とにかく辛い。 「先生、どうしていいかわかりません」、、、、「昨日教えた事だよね」 「先生。トイレットペーパーが有りません」、、、「少なくなって来たら教えてくれないとね」 「先生、よく見えないです」、、、「眼鏡をかけるなり、眼科にいってみるなりしてね」 「先生、画用紙は何段目の引き出しですか?」、、、「君にその質問されるの、4回目だよね」 「先生、注文した絵具は入ってますか?」、、、「お金がないってことで、発注をキャンセルしたよね?」 「先生、パースが正しいのかどうか自分で判断できません」、、「製図まで教えて何度もマンツーマンでやって、君、、、わかったっていってたよね?」 「先生、エスキースを見せた方がいいですか?」「あのね、君はそれを指導されたくて来てるんでしょ?」 「先生、友達が出来ないので寂しいです」、、、「遊び場じゃないしね^^;」 「先生、みんなはどうなんですか?」、、、「君はどうしたいの?」 「先生、先生、、、トイレットペーパーが有りません」、、、「だから〜〜、、、、、、」 すべてにおいてこの調子です。 どんなに些細な事も。ましてや重要な案件でもなおさら「自分で考え判断する」ということを怖がる、、、、、そう、怖がっているように見えます。 本来、小学生以下の年齢でも、経験が増え、その経験から判断できる「決断」や、それ以前の「学習して得た知識」は増えるはずのモノです。ところが、昨今の高校生の多くが、そうした「一度経験した事柄の記憶」もおぼつかず、何度も何度も同じ質問をします。 それが、かなりの学力を有する学生にも同様に見られる顕著な傾向のように思えるのが怖いところ。 一見して、また日頃の受け答えからも「学習能力の高さ」を感じる学生であっても、まるで「自分で考え、判断する事」を怖がっている。イヤ、怖がっている以前に、もはやその習慣すら無いようにさえ見受けられる事もしばしばです。 具体的な指導の最中でも、「先生、わかりません」「何がどんな風に?」 「どこが悪いかわかりません」「自分でも良くない作品だと感じるの?」 「ハイ、」 「で、何が悪いと感じさせると思う?」 「わかりません」 「ただ漠然と何となく嫌なの?」 「ハイ」 「で、この作品は完成しているの?」 「いいえ」 「じゃあ、どうして悪いと言い切れるの?」 「わかりません」 「じゃあ、昨日教えた影表現は出来てる?」 「いいえ」 「どうしてやらないの?」 「わかりません、上手くやれる自信がなくて、、、、」 「で、何もしなかったの?」 「ハイ」 すべての判断を自分ではせず、知識の蓄積、経験則も放棄した子供たちはいったいこれからどうやって生きて行くのだろうかと、、、本当に心配になります。 また後日 #
by artnova
| 2011-01-29 16:39
夏期講習も終わりました。まだまだ暑く、夏の「延長戦」のような気分ですが、まずは後期に向け
夏期講習で感じたことを受講生個々に面談をし、問題点を自覚できているかの確認と個別の学習内容の指示を出しています。 夏期講習前、pcが壊れ、これまでのデータをサルベージし、なんとか復旧、、、、かと思いきや、 新しいMacのosからソフトウェアのシリアルなんかの問題でしょうか、古いソフトの活用が出来ず、 新たにadobeデザインソフトを購入するはめになりそうです。おまけにアトリエのエアコンが2基故障し、ギリギリになって修理完了。危うく猛暑の夏期講習期間をエアコン無し、、、で過ごすことになってしまうところでした^^; 講習前期には例年通り、各高校での夏期講座などで時間を取られる学生が多く、頭数のそろわない講習が続きました。さらにはAO入試導入大学の増加と受験生の一般入試回避の傾向はますます強く、当初夏期講習を申し込んでくれた受講生もAO入試のスケジュールに合わせ、、またAO入試での持ち込み作品制作に時間を割かねばならない状況。 そうした持ち込み作品や面接の指導も付きっきりにならねばならないため、骨が折れました^^; (それが仕事ですが、、、) 今後2ヶ月余りは個々に苦手克服と更なる表現の研究の為に割くことになります。また公立大志願者は登校ペースを落とし、センター対策に重きを置くスケジュールとなります。 #
by artnova
| 2010-09-01 13:40
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