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某専門学校関係者のお話

私、10年近く前は某専門学校で非常勤の講師をしていた時期、、、と言うのがございまして、そのころお世話になった常勤講師から久しぶりの連絡を頂きました。
用件は近日開催される高校生対象のデザインコンペの告知だったのですが、久しぶりと言う事もあり、
2時間近く「今昔」の学生話となった訳です。
そこでお聴きした内容は意外なものでした。

今後は介護士同様に自動車整備士の求人が増え、引く手あまた、、、

なんだそうです。
良く考えればさもありなん。3K職種を嫌う高校生や大学生ですから、油まみれのそろいのツナギを来て
体を張って仕事をする重労働ジャンルに人気があるとは思えません。さらには昨今叫ばれている「若者の自動車離れ」は輸出産業の主軸である自動車メーカーの技術者不足にまで繋がっていることは容易に想像出来たことです。

美術研究所と自動車整備士、、、、直接の関係は無いのですがつい先だって教え子が某芸大を卒業し同窓生と結婚するとして挨拶に来てくれました。その婚約者が自動車メーカーデザイン部勤務。
マツダ自動車を中心にデザイナーとモデラーの関係について話して行った事を思い出します。

就職の確率だけを言えば自動車整備士。機械好き、車好きの子供達には良い進路なのかなあ、、、と。
ほんの一握りの優秀な学生のみが自動車デザインの仕事にありつけるのに対し、100%に限りなく近く職にありつける整備士。デザイナーになれなかった者の他の方向性の提示もまた大人の役割なのかも、、、、などと思ったりします。
# by artnova | 2013-05-31 17:48 | 教育

教える量

受験生に実技指導をするようになって24年。始めの10年は感じなかったがここ10年、特に意識する、、、意識させられるようになったのが「教える量」についてです。

私自身、学生であった時分に「教わる」という感覚とそうした経験が乏しく、「教え方」を真似ようにも、真似をできる師匠というものがおりません。日本でも、フランスでも、言われた事と言えば

「描け」
「ダメ」
「どうしてなのか考えろ」

この3つのワードが全体の90%を占める。そういう教わり方をして来ました。
そうした「教わり方」故に私自身が「論理的」になり、また「描写方法」「絵画理論」を確立する努力をしてきましたし、文献を紐解いて確認して来たものです。

「感覚」をたよりに描いて来た学生に「論理の裏付け」を求める事は不可避であり、必要な事だと啓蒙することは重要だと今でも感じています。それは彼らが「プロフェッショナル」を目指しているからに他なりません。また、感覚と呼ばれるものが生活環境など後天的要素で支配される以上、情報の少ない「田舎育ち」(私も田舎生まれ、田舎育ちですが、、)の彼らのおよそ鋭敏でない「感覚」だけに頼った作画では「作品」と呼ぶにはいかにも脆弱です。
「知恵」とよんでも良いでしょう。この論理性の獲得、すなわち「考える事」とその力の獲得は絶対に必要なものです。
教えるという行為と結果としてもたらされる合格を商材として、お金を頂いて教える のですから、
「教えない」というのは論外です。ですが、この10年は「教えすぎる事で学生の考える力を育めずにいる」「教える量を減らして考えてもらおうとすると思慮の無い作品を  感覚で、、、なんとなく、、、と作ってしまう」。教える量の多少を学生ひとり一人の「考える力」や「教わりたい欲求」「志望校レベル」に応じて変化させます。
コミニュケーションの欠落。そういってしまえなくもないですが、それまでに培った「一人の世界」
と切り離した客観的判断やマジョリティーの理解と自分自身への理解を深める経験の極めて少ない彼らの「考える」とはあくまで小さな自分の世界での判断であり、ゼロから何かを生み出す創造も、
自分の考えの至らないだろう「想像」も一元的に過ぎ、「大海を知れ」と連呼したくなります。
「教える量」のさじ加減、すごく難しいと感じています。
# by artnova | 2013-05-24 20:11 | 教育

価値観について

「あなたと私はどうやら価値観が違うようですね」

良く聞く台詞です。
子供達と話していても「親は分かってくれない」「話しても無駄」。
すなわち「価値観が違う」と言うのです。
本当にそうでしょうか。

これはあくまで私個人の考えなのかもしれませんが、物事をどのように捉えるかやいくつかの選択肢の
内、何を選ぶか、またその理由は、、、というレベルの問題と「価値観の相違」って違うステージに本来据えるべきものではないかと思うのです。
価値観なんて大げさなものじゃなく、「どっちが好きか」「どっちが楽か」とか「何が感じがいいか」って問題。その考え方や感じ方の相違は「嗜好の違い」であって価値観の相違とは違います。
では価値観とは?
 私が考える価値観とはもっと本質的、根源的問題で「何が悪で何が善か」。「人は生きるべきか」「生きるのであれば善行を良しとするか」なんて事です。ですから「私はドラマよりバラエティー番組が好きだな」「えー!?バラエティーなんてくだらない、断然ドラマのほうが面白いよ」って2つの意見があった時に「あなたと私は価値観が違う」なんて思いは一つもありません。2者は共通して
テレビ放映を楽しんでいるのですし、生活の中のゆとり、リラクゼーションとしてテレビを見る楽しみを共有している訳ですから「価値観が同じ」とむしろ同族感を確認出来る要素と捉える訳です。
また、「寝る前にテレビを見て楽しんでいる」人と「テレビなんてくだらない。私は本を読むわ」って人も「夜間の時間の使い方の具体的な行為」が違う、、、と言うだけで、夜間、気持を解放したい、、だとかリラックスしたい、楽しみたい、、、という気持は共通です。
価値観とはこの場合「寝る前に楽しみたいし人生を豊かにしたい。生とは楽しくあるべきだ」というモノであり、それに反する別の価値観とは「人生など無意味であり、楽しむ楽しまないどちらにせよそれらには何の価値もない」というものであるはずです。

共通した価値観を持つにも関わらず些末な見解の相違を「価値観の違い」と捉え、見解の違う他者を
「相容れない考えの持ち主」と決めつけるのはいかがなものか。
# by artnova | 2012-09-16 17:09

美術指導の危機感

当校では関東圏のいくつかの中小規模研究所と連携し「合同コンクール」(実技学科)模試を年2回開催しています。

それ以前は地方都市の閉鎖的な環境で首都圏の難関大を目指す受験生達に「どうしたら正しい情報を提供し、競えるまでに実力を伸ばしてあげられるか」を模索し続けた20年でした。
地方都市ならではの情報不足から来る誤解や社会情勢を情報ソースに取り入れない子供達に如何に「将来性」や「適応」を考慮すべきかを説くことに躍起になり、また平均して学力の低い、意識レベルの低い子供達に早熟な「都会」の
子供達と競えるデータを与えるかを工夫し続けもしました。
コンクールを行うことで純粋に数値として同様の進路を目指す他校の受験生と比較出来るようになったおかげで僅かですか、子供達に具体的な危機感を啓蒙できるようになって来たように思います。

これまでの20年は常に「都会の研究所に遅れをとらぬよう」と、考えておりました。
また、この10年でどんどんひどくなる子供達の学習意欲、、、、ひいては生きる意欲は「田舎ならでわ」のものとも
思い、ただただ危機感を募らせておりましたが、この数年で聞かれるようになったのは首都圏の公立、私立を問わず
いずれの高校でも美術担当教諭の方々が共通の危機意識をもって幾度も会合を開き、今なおその答えのでない

「努力せず、すぐに諦める子供達にいかにして長時間の学習が必要な実技指導をするか」

に頭を抱えている状態だと言うことを耳にするようになったことです。
高校の美術教諭に限ったことではありません。これまで難関であり多くの受験生を集めて優秀な学生を選抜してきた有名美大でさえ、教授陣が口を揃えて言うのは「意識レベルの低さ、基礎学力、人としての基本能力の低さからこれはもう授業にならない」ということ。

我々、進学指導する立場からすれば無論、どのような状況の受験生であっても意中の大学への進学を可能にする算段をし、それに準ずる大学には必ずクリア出来るだろうスキルを身につけさせる、、、それはもう責務です。が
どうしても時間的な制約、本人の基礎学力、学習能力が落ちてきた昨今、1年や2年で芸大に行きたい、、、、などと
言われてしまうと「ア、、、甘過ぎる」とついつい言いそうになってしまいますし、高校での学習、それ以前の小中での学習習慣や家庭での取り組み、、、、幼い頃にこれだけ出来上がってしまった「やらない、やれない」性質をもう
どんな啓蒙をしても「響かない」のではないかという気が、、、、、。責任転嫁かもしれませんが、コミニュケーション能力に乏しい子供達に「事の重大さ、必要性」「出来る事を当たり前と思って欲しい」といっても「出来ないことに慣れすぎ」ていてどうにも変えられない。


子供達が勉強から逃げるのも、人生に対し及び腰なのもわれわれ大人全員の責任、、、、ですよね。
# by artnova | 2012-09-16 16:44

続き

日本には伝統的に自分の近親者の能力や容姿を謙遜、卑下する習慣があります。

「賢いお子さんですね」
「いえいえとんでもない。勉強しないでテレビばかりみてるので受験が心配で、、、」

「かわいらしいお子さんですね」
「いやいや鼻の辺りなんか私に似てぽってりして、、、」

近親者に限らず、自分自身を褒められてもなかなか素直に受け取れなかったり、自分でも自信の
ある部分を褒められてもなお、その自信を気取られないように謙遜したりします。


第三者に対する自分、近親者の卑下がこれほど慣例的に行われ、またその卑下を額面通り取らない
受け側の反応に慣れている日本人が同時に「何か災厄が起こった際」には一転

「俺は悪くない」
「私の子供がそんなことをするはずがない」

自己の責任を問われる問題に関しては前後の事情も飲み込まぬまま一途に自分の正当性のみを
主張しようとするのは矛盾とも言えるのではないかと思います。
また、だからこそ日本人らしい。

私がお預かりする高校生もかなりの割合で自己の責任を他者に転嫁する傾向があります。
以前にもブログで書いたように記憶しておりますが教室内の備品を壊した学生が

「先生。石膏像が壊れました」
「壊したんでしょ?石膏像はひとりでに床に落ちたりはしないからね」

。。。。。
これでもまだ、報告に来るだけ見込みがあります。かなり多くの子供達が備品を壊しても、
他の学生の作品に傷をつけたとしても「私のせいじゃない」「だまってたら誰のせいか分かるはずがない」とでも考えるようで報告は上がってきません。

一番多いのはそうした事件、事故を気取られないように黙っている学生が本当はそのことでびくびくした気持でいること。またそのことを問いただすと「壊れた」「落ちた」と自分にあたかも責任がないかのようないいようをする子供です。



三者面談をします。
その中で一番強く感じることは「保護者と子供の意識のギャップ」です。
無論、私自身が既に高校生の親御さんと同世代ですから、子供達のいかにも子供らしい「状況を飲み込めないわがまま」には一言あります。ですが自己責任を自問自答したり、自分本位に考えを持ち続けてしまう子供の多くが親の影響を強く受け、親に「話を聞いてもらえない」と感じている様です。
つまり、よろしくない親子関係が生んだ問題と言えなくないでしょうか。

「うちの子は本当に勉強ができないです。家で勉強をしてくれません」
「学校のカリキュラムをこなし、単位の取得の為、赤点を取らないようにするのに精一杯で
受験のことは二の次になっています」
「厳しく育てました。勉強するよう促しもしましたし、家庭教師もつけました。それでも学力が上がりません」

高校の特別進学クラスに入ったり、家庭教師を雇たり、、、はたしてそれは子供の望んだことでしょうか。
親が自宅で本を読んだり、有益な情報収集の為に賢くインターネットを利用したり、「勉強」という
習慣を子供に見せているのでしょうか。
親が勉強をしない家庭で子供にだけ勉強を強いれば「苦痛」以外の感覚は生まれません。
自ら興味のあることは親も知らないレベルまで知識を貯えよう、、情報を集めようとする子供は確かにいます。ですが、そうでない子供に「勉強しろ」といっても「将来困ることになるぞ」と脅しても
子供にとってそれは苦痛と不安しか与えないのだと言うことを我々大人はもっと自覚すべきではないでしょうか。


近年、特に教育問題が広く、強く叫ばれています。
教育の現場にいる先生方、教育委員会、我々のような塾講師、、、「教える」という立場やその環境整備に責任のある者は勿論、もっとも重要な教育の場は幼年期の「家庭」にあったはずです。
落ち着きや集中力が育まれていない子供を小学校の教員がしつけからはじめる。
学習の基礎、とりわけ「調べる」習慣のない子供に中高の教員が各科目を指導要領に乗っ取り教える。大学受験の為に我々塾講師は子供達のキャパシティを越えた負荷を与えることを余儀なくされる。

子供不在の教育のあり方を考えても無意味ではないかと思うのです。



またまたまとまらない文章ですみませんでした。
# by artnova | 2012-08-16 18:25