都会が「怖い」高校生達

夏休みを旅行と家事に費やし、仕事以外のことで頭と体を使ってクタクタの投稿者です。
いよいよ入試まで5ヶ月。夏の間に取り組んだ課題で浮き彫りになった各自のウィークポイントを
改善しつつ、新たなテクニックを求め模索する時期です。


 さてさて、夏期講習も終了し、受験までの年間カリキュラムの一つの節目を終えた訳ですが、講習会冒頭に毎年行うのが「進路意識調査」。早い話が受験生の現時点での気持の「ゆらぎ」がないかなどを
報告してもらうマンツーマンの座談会のようなものです。
最近の進路指導で良く聴かされるのが「東京に出るのはちょっと、、、、」という都会への恐怖心や
親元から離れられない「誰かに守られた穏やかな場所から離れたくない」という依頼心です。
お預かりする多くの受験生が現在活躍される何人かの有名デザイナーやアーティストへの憧れから美大受験を選択していますし、私共のところへ通ってくれてもいるのですが、ようは
「東京にはいかずに佐藤カシ○氏や佐○卓氏のようなでっかい仕事をするかっこいいデザイナーになりたい」
と言うのです。
 多くの地方美大が抱える問題は首都圏のそれ以上に「就職難」であるということです。
金沢美術工芸大のように「地元の地場産業である伝統工芸士を育成する」という大義をもった大学というのは実はそれほど多くありません。無論、地元の産業を首都圏へ、または世界へ送り出すための
一つの重要な要素としてデザインやそれを担う若者をを育てようと設立した、、、その思いが大きかっただろう事は否定しません。ですが現実は高額な設備投資をし学生から高額な授業料を徴収し、芸大卒だの多摩美院卒だのの優秀な指導者を据えても「地元の経済」を底上げしない限り、卒業生達は行き場を失うシステムは改善されませんし、改善するも何も、地元経済は中央に、中央(首都圏)経済は主に東京に、東京の経済はアジアに、アジアは世界に、、、と繋がっていて、ある日突然「地元経済が盛り返す」なんてことはある訳がありませんから、ことは「大学の教育システム」の問題では無かったりします。
多くの新興勢力(開校20年未満の美大)はほとんどがそうした「地方の活性化、都市化」をもくろみ、また、当て込んで設立されました。故に、地元経済の盛衰と一体化した「力」しか持ち得ない。
産業が盛んであれば就職もある。逆に産業が衰退すれば就職は無い。
 新潟の場合、地域では「三条、燕」のような金属加工業とごく一部の家電メーカー、空調機器メーカーが全国的に知られているものの、地場産業として手工芸などの発達は勿論、金沢や京都などとは比べるレベル(製品の善し悪しではなく、全国的な認知度)になく、しかも少数の技術者(職人さん)が家内制手工業的に行っていて「後を継ぐ者の不在」はあれど「給与をしっかりと出し、会社として経営して行ける」だけのマーケットを持っていないので「美大出身者、新卒者を雇用する」というふうには決してなって行かないのが現状です。
新潟に限らず他の地方都市でもまだまだデザインの「商売における位置づけ」は低く、且つ、そのデザインの多くの場合の現場である雑誌などの紙媒体もまた衰退している現在。大学が存亡を懸け、雇用など見込めないデザイナー予備軍を募集し排出し続け、また実状を知らされない、知らされても見ないようにしている高校生は憧れだけでデザイナーを目指し続ける訳です。当然、高額の授業料4年分を回収出来るような仕事に就けるのは一握り、、、、いやいや「ひとつまみ」なのです。
当然のように首都圏でも大阪を中心とする関西圏でも実状はそれほど変わりませんから、美大新卒者は20も30も入社面接を受け、内定が出ない。地方の美大生は地元では就職がないので首都圏に職を求める。

地方の美大から中央のより大きな仕事(広告費が巨額でメディアの露出度の高い)にありつくことは
不可能、、、とは言いませんが、かなりそれに近い。同様に就職は難しくともまだ可能性のある有名美大、芸大の方が「やりたい仕事にありつける」可能性が高い事は言うまでもなく、高校生にはまず
やりたい事を聴き、その為に可能性の一番高い大学とその高校生の性格は性質上、「カリキュラムがしっかりしている大学」と「自由度の高い大学」を紹介し、推薦したりします。ところが

「東京はちょっと。。。。。」
「大阪はがさつな感じがして、、、、」

選択肢がなくなってしまうのです。



居住する場所、都市の趣向は勿論自由ですし、行きたい大学に行って欲しいとも思います。
ですが、、、、
「東京に行かずに佐藤可し○になりたい」とは、今のところ
「海外にいくのは面倒だし、怖いけど、本場のイタリア料理が新潟で食べたい」と行ってるのと同義なのです。
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# by artnova | 2013-09-10 19:19 | 教育

このままでいいなんて誰も思ってないですよね

当方のデザイン科を担当してくれている女性講師は8〜9年前に私が指導し、多摩美術大を卒業した
者です。長らく、きちんとしたパンフレットを準備出来ず、各高校へのDMもかなり脆弱でご迷惑をお欠けして来ましたが、この度、全てを一新した学校案内が出来上がり、夏期講習要項とともに全県の高校へ。同時に、デザイン科講師に日中、市内のいくつかの高校へ「営業?」に行かせています。

10数年前、先代所長より業務を引き継いだ際、私自身も全県30数校へのご挨拶周りをさせて頂き、その後も数回にわたり勤務講師がお邪魔させて頂きました。そのころから問題は上がっていたのですが今現在、高校の美術教諭の方々は半数が「非常勤」でいらっしゃいます。県下には107校の高等学校がございますが最早高校の美術教諭の正式採用試験は10数年なく、徐々に非常勤化が図られています。そのため私共のような外部業者がいくらDMを送っても未開封で放置されたり、開封して頂いても学生達の美術受講が選択で、美術部の指導も上手く回っていないという話。有益な情報も肝心の受験志望者に渡っていない現状があります。
結果、これは新潟に限った事ではないのですが、特に地方では美術大学受験者の準備不足が目立ち、
東京芸大を筆頭とする公立芸大、難関であり続ける私大への合格者は減りつつあり、また私共のような受験指導を生業とする予備校への通学者は激減しています。
無論、非常勤化の問題のみが原因ではなく、不透明な先行きへの不安から安定した職業への希望を持つ高校生も多いですし、定員割れをした美大への無試験に近い入試だけを求める受験生も多い訳ですから状況は頭の痛い話です。

ただし、事の本質はそうした「状況」のみにあるのでは無いようで、高校を訪問させて頂いても帰ってくるのは「そうした受験準備を促しているのですけど、肝心の受験生が何もしようとしてくれない」というご返答。問題の本質は状況もさることながら肝心の受験生達のメンタリティーにあるように感じますし、ほとんどの美術指導者がそれを感じていながら「何も出来ない」「何もしない」ことにあるようです。無論、我々のような一介の受験屋がご家庭の教育方針や子育てに口を挟む立場に無い事も、高校での指導、中学での指導、小学校での指導、、、受験に至る年齢までに教わるべき「生きる」為の力や想像力、協調性などの指導不足だけを捉えて「だからダメなんです」と言う事も言えるはずもありません。そう、私を含む「大人全員」が危機的とも言える若年層の「虚脱感」を生み出してしまったのですから。

ある高校の美術教諭からおしかりをいただいた事があります。
「アートノバさんは厳しすぎて当校の学生が自信を失ってしまいました。少し学生に迎合されて、時代のニーズを考えられては?」と。情けないお話ですが、そういわれて引きつった笑いしか出来ませんでした。

しかし本当にそうでしょうか。様々な要因、、、とは言いましたが、結局の所、そうした大人の子供に迎合する気弱なスタンスが自身の人生を考える事も状況を工夫によって換えようとする力も子供達から奪っているように思えてなりません。
斯様に語気を荒げても空回りするだけなのは20数年、3000人を超える指導の経験上、充分承知しています。批判だけは出来ても私自身がその子供達の抱える問題をクリアにして上げられずに悩み続けている訳ですし、今後も明確な答えや方法もないまま「体当たり」でひとり一人にアプローチを試み、「人生とか、人とか、、、、、大人になる、、、とかさ、面白いよ」と語り続けるのだと思います。



でも、、、ですね。高校3年生の夏。「浪人出来ない」条件で「先生の所では芸大に何人合格してますか?」はやめていただけませんか?^^:ね。 今現在新潟で受験対策をして東京芸大生をやっている学生は私の教え子の3人だけだと思います。。。
現実の正しい情報を早期に、学生に迎合するのではなく、「現実がどこにあり、どういうものなのか」「それを獲得する手段と努力の必要性」を我々大人が逆に彼らに啓蒙せずに子供達が幼い価値観や世界観で世の中を色眼鏡で見続け、自分を「辛いな」とだけ思い続ける状況はきっと無くなりはしないのでは無いでしょうか。


手をこまねいている猶予など、もはやどこにもないのだと言う事を大人は認識せねばなりません。
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# by artnova | 2013-07-12 18:46 | 教育

某専門学校関係者のお話

私、10年近く前は某専門学校で非常勤の講師をしていた時期、、、と言うのがございまして、そのころお世話になった常勤講師から久しぶりの連絡を頂きました。
用件は近日開催される高校生対象のデザインコンペの告知だったのですが、久しぶりと言う事もあり、
2時間近く「今昔」の学生話となった訳です。
そこでお聴きした内容は意外なものでした。

今後は介護士同様に自動車整備士の求人が増え、引く手あまた、、、

なんだそうです。
良く考えればさもありなん。3K職種を嫌う高校生や大学生ですから、油まみれのそろいのツナギを来て
体を張って仕事をする重労働ジャンルに人気があるとは思えません。さらには昨今叫ばれている「若者の自動車離れ」は輸出産業の主軸である自動車メーカーの技術者不足にまで繋がっていることは容易に想像出来たことです。

美術研究所と自動車整備士、、、、直接の関係は無いのですがつい先だって教え子が某芸大を卒業し同窓生と結婚するとして挨拶に来てくれました。その婚約者が自動車メーカーデザイン部勤務。
マツダ自動車を中心にデザイナーとモデラーの関係について話して行った事を思い出します。

就職の確率だけを言えば自動車整備士。機械好き、車好きの子供達には良い進路なのかなあ、、、と。
ほんの一握りの優秀な学生のみが自動車デザインの仕事にありつけるのに対し、100%に限りなく近く職にありつける整備士。デザイナーになれなかった者の他の方向性の提示もまた大人の役割なのかも、、、、などと思ったりします。
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# by artnova | 2013-05-31 17:48 | 教育

教える量

受験生に実技指導をするようになって24年。始めの10年は感じなかったがここ10年、特に意識する、、、意識させられるようになったのが「教える量」についてです。

私自身、学生であった時分に「教わる」という感覚とそうした経験が乏しく、「教え方」を真似ようにも、真似をできる師匠というものがおりません。日本でも、フランスでも、言われた事と言えば

「描け」
「ダメ」
「どうしてなのか考えろ」

この3つのワードが全体の90%を占める。そういう教わり方をして来ました。
そうした「教わり方」故に私自身が「論理的」になり、また「描写方法」「絵画理論」を確立する努力をしてきましたし、文献を紐解いて確認して来たものです。

「感覚」をたよりに描いて来た学生に「論理の裏付け」を求める事は不可避であり、必要な事だと啓蒙することは重要だと今でも感じています。それは彼らが「プロフェッショナル」を目指しているからに他なりません。また、感覚と呼ばれるものが生活環境など後天的要素で支配される以上、情報の少ない「田舎育ち」(私も田舎生まれ、田舎育ちですが、、)の彼らのおよそ鋭敏でない「感覚」だけに頼った作画では「作品」と呼ぶにはいかにも脆弱です。
「知恵」とよんでも良いでしょう。この論理性の獲得、すなわち「考える事」とその力の獲得は絶対に必要なものです。
教えるという行為と結果としてもたらされる合格を商材として、お金を頂いて教える のですから、
「教えない」というのは論外です。ですが、この10年は「教えすぎる事で学生の考える力を育めずにいる」「教える量を減らして考えてもらおうとすると思慮の無い作品を  感覚で、、、なんとなく、、、と作ってしまう」。教える量の多少を学生ひとり一人の「考える力」や「教わりたい欲求」「志望校レベル」に応じて変化させます。
コミニュケーションの欠落。そういってしまえなくもないですが、それまでに培った「一人の世界」
と切り離した客観的判断やマジョリティーの理解と自分自身への理解を深める経験の極めて少ない彼らの「考える」とはあくまで小さな自分の世界での判断であり、ゼロから何かを生み出す創造も、
自分の考えの至らないだろう「想像」も一元的に過ぎ、「大海を知れ」と連呼したくなります。
「教える量」のさじ加減、すごく難しいと感じています。
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# by artnova | 2013-05-24 20:11 | 教育

価値観について

「あなたと私はどうやら価値観が違うようですね」

良く聞く台詞です。
子供達と話していても「親は分かってくれない」「話しても無駄」。
すなわち「価値観が違う」と言うのです。
本当にそうでしょうか。

これはあくまで私個人の考えなのかもしれませんが、物事をどのように捉えるかやいくつかの選択肢の
内、何を選ぶか、またその理由は、、、というレベルの問題と「価値観の相違」って違うステージに本来据えるべきものではないかと思うのです。
価値観なんて大げさなものじゃなく、「どっちが好きか」「どっちが楽か」とか「何が感じがいいか」って問題。その考え方や感じ方の相違は「嗜好の違い」であって価値観の相違とは違います。
では価値観とは?
 私が考える価値観とはもっと本質的、根源的問題で「何が悪で何が善か」。「人は生きるべきか」「生きるのであれば善行を良しとするか」なんて事です。ですから「私はドラマよりバラエティー番組が好きだな」「えー!?バラエティーなんてくだらない、断然ドラマのほうが面白いよ」って2つの意見があった時に「あなたと私は価値観が違う」なんて思いは一つもありません。2者は共通して
テレビ放映を楽しんでいるのですし、生活の中のゆとり、リラクゼーションとしてテレビを見る楽しみを共有している訳ですから「価値観が同じ」とむしろ同族感を確認出来る要素と捉える訳です。
また、「寝る前にテレビを見て楽しんでいる」人と「テレビなんてくだらない。私は本を読むわ」って人も「夜間の時間の使い方の具体的な行為」が違う、、、と言うだけで、夜間、気持を解放したい、、だとかリラックスしたい、楽しみたい、、、という気持は共通です。
価値観とはこの場合「寝る前に楽しみたいし人生を豊かにしたい。生とは楽しくあるべきだ」というモノであり、それに反する別の価値観とは「人生など無意味であり、楽しむ楽しまないどちらにせよそれらには何の価値もない」というものであるはずです。

共通した価値観を持つにも関わらず些末な見解の相違を「価値観の違い」と捉え、見解の違う他者を
「相容れない考えの持ち主」と決めつけるのはいかがなものか。
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# by artnova | 2012-09-16 17:09

美術指導の危機感

当校では関東圏のいくつかの中小規模研究所と連携し「合同コンクール」(実技学科)模試を年2回開催しています。

それ以前は地方都市の閉鎖的な環境で首都圏の難関大を目指す受験生達に「どうしたら正しい情報を提供し、競えるまでに実力を伸ばしてあげられるか」を模索し続けた20年でした。
地方都市ならではの情報不足から来る誤解や社会情勢を情報ソースに取り入れない子供達に如何に「将来性」や「適応」を考慮すべきかを説くことに躍起になり、また平均して学力の低い、意識レベルの低い子供達に早熟な「都会」の
子供達と競えるデータを与えるかを工夫し続けもしました。
コンクールを行うことで純粋に数値として同様の進路を目指す他校の受験生と比較出来るようになったおかげで僅かですか、子供達に具体的な危機感を啓蒙できるようになって来たように思います。

これまでの20年は常に「都会の研究所に遅れをとらぬよう」と、考えておりました。
また、この10年でどんどんひどくなる子供達の学習意欲、、、、ひいては生きる意欲は「田舎ならでわ」のものとも
思い、ただただ危機感を募らせておりましたが、この数年で聞かれるようになったのは首都圏の公立、私立を問わず
いずれの高校でも美術担当教諭の方々が共通の危機意識をもって幾度も会合を開き、今なおその答えのでない

「努力せず、すぐに諦める子供達にいかにして長時間の学習が必要な実技指導をするか」

に頭を抱えている状態だと言うことを耳にするようになったことです。
高校の美術教諭に限ったことではありません。これまで難関であり多くの受験生を集めて優秀な学生を選抜してきた有名美大でさえ、教授陣が口を揃えて言うのは「意識レベルの低さ、基礎学力、人としての基本能力の低さからこれはもう授業にならない」ということ。

我々、進学指導する立場からすれば無論、どのような状況の受験生であっても意中の大学への進学を可能にする算段をし、それに準ずる大学には必ずクリア出来るだろうスキルを身につけさせる、、、それはもう責務です。が
どうしても時間的な制約、本人の基礎学力、学習能力が落ちてきた昨今、1年や2年で芸大に行きたい、、、、などと
言われてしまうと「ア、、、甘過ぎる」とついつい言いそうになってしまいますし、高校での学習、それ以前の小中での学習習慣や家庭での取り組み、、、、幼い頃にこれだけ出来上がってしまった「やらない、やれない」性質をもう
どんな啓蒙をしても「響かない」のではないかという気が、、、、、。責任転嫁かもしれませんが、コミニュケーション能力に乏しい子供達に「事の重大さ、必要性」「出来る事を当たり前と思って欲しい」といっても「出来ないことに慣れすぎ」ていてどうにも変えられない。


子供達が勉強から逃げるのも、人生に対し及び腰なのもわれわれ大人全員の責任、、、、ですよね。
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# by artnova | 2012-09-16 16:44

続き

日本には伝統的に自分の近親者の能力や容姿を謙遜、卑下する習慣があります。

「賢いお子さんですね」
「いえいえとんでもない。勉強しないでテレビばかりみてるので受験が心配で、、、」

「かわいらしいお子さんですね」
「いやいや鼻の辺りなんか私に似てぽってりして、、、」

近親者に限らず、自分自身を褒められてもなかなか素直に受け取れなかったり、自分でも自信の
ある部分を褒められてもなお、その自信を気取られないように謙遜したりします。


第三者に対する自分、近親者の卑下がこれほど慣例的に行われ、またその卑下を額面通り取らない
受け側の反応に慣れている日本人が同時に「何か災厄が起こった際」には一転

「俺は悪くない」
「私の子供がそんなことをするはずがない」

自己の責任を問われる問題に関しては前後の事情も飲み込まぬまま一途に自分の正当性のみを
主張しようとするのは矛盾とも言えるのではないかと思います。
また、だからこそ日本人らしい。

私がお預かりする高校生もかなりの割合で自己の責任を他者に転嫁する傾向があります。
以前にもブログで書いたように記憶しておりますが教室内の備品を壊した学生が

「先生。石膏像が壊れました」
「壊したんでしょ?石膏像はひとりでに床に落ちたりはしないからね」

。。。。。
これでもまだ、報告に来るだけ見込みがあります。かなり多くの子供達が備品を壊しても、
他の学生の作品に傷をつけたとしても「私のせいじゃない」「だまってたら誰のせいか分かるはずがない」とでも考えるようで報告は上がってきません。

一番多いのはそうした事件、事故を気取られないように黙っている学生が本当はそのことでびくびくした気持でいること。またそのことを問いただすと「壊れた」「落ちた」と自分にあたかも責任がないかのようないいようをする子供です。



三者面談をします。
その中で一番強く感じることは「保護者と子供の意識のギャップ」です。
無論、私自身が既に高校生の親御さんと同世代ですから、子供達のいかにも子供らしい「状況を飲み込めないわがまま」には一言あります。ですが自己責任を自問自答したり、自分本位に考えを持ち続けてしまう子供の多くが親の影響を強く受け、親に「話を聞いてもらえない」と感じている様です。
つまり、よろしくない親子関係が生んだ問題と言えなくないでしょうか。

「うちの子は本当に勉強ができないです。家で勉強をしてくれません」
「学校のカリキュラムをこなし、単位の取得の為、赤点を取らないようにするのに精一杯で
受験のことは二の次になっています」
「厳しく育てました。勉強するよう促しもしましたし、家庭教師もつけました。それでも学力が上がりません」

高校の特別進学クラスに入ったり、家庭教師を雇たり、、、はたしてそれは子供の望んだことでしょうか。
親が自宅で本を読んだり、有益な情報収集の為に賢くインターネットを利用したり、「勉強」という
習慣を子供に見せているのでしょうか。
親が勉強をしない家庭で子供にだけ勉強を強いれば「苦痛」以外の感覚は生まれません。
自ら興味のあることは親も知らないレベルまで知識を貯えよう、、情報を集めようとする子供は確かにいます。ですが、そうでない子供に「勉強しろ」といっても「将来困ることになるぞ」と脅しても
子供にとってそれは苦痛と不安しか与えないのだと言うことを我々大人はもっと自覚すべきではないでしょうか。


近年、特に教育問題が広く、強く叫ばれています。
教育の現場にいる先生方、教育委員会、我々のような塾講師、、、「教える」という立場やその環境整備に責任のある者は勿論、もっとも重要な教育の場は幼年期の「家庭」にあったはずです。
落ち着きや集中力が育まれていない子供を小学校の教員がしつけからはじめる。
学習の基礎、とりわけ「調べる」習慣のない子供に中高の教員が各科目を指導要領に乗っ取り教える。大学受験の為に我々塾講師は子供達のキャパシティを越えた負荷を与えることを余儀なくされる。

子供不在の教育のあり方を考えても無意味ではないかと思うのです。



またまたまとまらない文章ですみませんでした。
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# by artnova | 2012-08-16 18:25

私は違う  私の子供は違う

20年、高校生と格闘しています。
そうした経験からこれまでもお話させていただいたように、急激に社会やそこに住まう人々の「世界」
に対する「社会」に対する、「自分と言う人間」に対する感覚が変わって来ていることを感じます。
無論、私自身が「格闘する相手」との年齢差が上がっていることは否めませんし自覚もしています。
このジェネレーションギャップを素直に受け入れ、「全てはそのせいだ」と決めつけることができれば
もっと心穏やかでいられるのやもしれないと感じてもいます。ただ、、、無理。


かくして子供達は本当に自ら「考えること」をやめてしまったのか。
一番強く感じるのは、私自身が高校生にとって「当然知っているべき情報」を彼らが知らない、興味もないという事実を突きつけられた時です。美大なんて=ところに行きたがる高校生なのですから何かしら、誰かしら、好きな作家やデザイナーがいたり好きな作品、デザインものやメーカーの好みがあったりするモノだろうと言うのが私の「当然の情報」であり。彼らの興味の対象であるだろうと思っているのですが、どうやらそれは遠い世界のお話らしいです。
嫌だけど努力はしないといけないらしい。他に考えつかないからやっている。。。。そんな感覚。
知りたいという欲求や出来るようになりたいという願望はどこへ忘れ去られたのでしょうか。
私の高校時代にも無気力で世をすね、社会や大人の世界を色眼鏡で見る子供は大勢いました。
それでも「だからどうした?」という情報だったとしても「誰が喧嘩が強い」「かっこいいアパレルメーカーはどこ」「人に自慢し、かっこいい、センスがいいと思われる音楽は何」など、社会に出る際、それで飯を食うネタではないにしても社会の情報戦のミニチュア判が友人同士で行われていたように思うのですが、これだけコミュニケーションが不足し下手な子供達ばかりになると「知らない」
ことがむしろデフォルトになり、「知っている」ことに何らアドバンテージを感じない、、、なんて
感覚が一充満してしまいます。今がまさにその状態。
好きな音楽も、映画も、好きなタレントすらおらず、全てが「嫌いじゃないけど好きってほどでも」
状態です。
「この子達は事故欲求と言うものはないのかしらん」
思わず考えてしまいす。
実際「それは嫌だしやりたくない」という言葉は聞けても「○○がしたい。××が好き」という言葉はついぞ聞かれなくなりました。嫌い、、、という言葉や意見も聞かなくなって久しい気がします。
それは子供達に蔓延する「言い争いたくない」感覚、それがそうさせるのでしょう。
好き嫌いを云々するのは「意見の交換」であり「争い」ではないことを彼らは自覚出来ていません。


なんだか論旨が分からない文章になってきました。後日、まとめてみます。
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# by artnova | 2012-08-04 18:04

社会や政治状況のせいか?

確かに「将来に夢を見れない」という言葉に対して強く反論できる要素が大人の私にも上手く見つける事が出来ません。ベビーブーム後期に産まれた私の世代はとにかく競争というのがキーワードであり、
保育園でも小学校、中学校でも勿論高校でも「学力や体力、知力、人柄までも」が人と比べられる尺度であり、その優劣が全員を「上下」に振り分けていたように思います。
「努力する事で上へ」。「努力しなければ下へ」。
人の人生の満足度は本来、個々に「何をして幸せか」が別々に有るはずなのに特に社会的な地位や経済的な裕福度が尺度の大きな部分を占めていた時代。必然的に「生きるために努力をする」「そうでないと負けてしまう」という強迫観念にもにた感覚が社会全体の中に有ったように感じています。
では私の時代、また私よりも前の時代は今と比べて「夢を見れたか」というとそれはまた別の問題のように感じています。具体的に芸大デザイン科の倍率は45倍あり、私の少し下の世代では60倍の倍率で入試が行われ、望んで、無尽蔵の努力をして、周りの誰よりも上手くなったと自覚しても尚、芸大は遥か雲の上の存在であったと思います。受験生は1日の大半を受験対策に費やし、睡眠時間を3時間に削り、全ての時間を学科と実技に充て、眠気をカフェインの錠剤を飲んでしのぎ、、、して立ち向かった。それでも意中の大学へは合格できず、まったく違うジャンルで進学したり、生計を立てたり。希望する事を体を壊すほど努力して手にしようとしてもかなわなかった時代。
そういう経験からでしょうか、「望んで手に入れればほとんどが手に入るだろう現在」を羨ましく感じたりもして。

もっと前の世代。段階の世代の少し下の世代でも現在同様、政治的に不安定だったり安保がらみで「日本はダメになって行くのでは?」とみんなが不安になっていた時代もまた、将来を悲観する要素が満載だったはずですし、戦中戦後は?  言い出したらキリが無いですけど^^;

私の父は戦中生まれで、貧乏な小作農を営む一家の長男として産まれました。
兄弟は2人の姉と2人の妹。祖父は父が13の時に他界し、祖母と4人の女兄弟を中学もろくに行かず、父が働き、支えて来た苦労人です。
明日食べるものも無く、毎日腹を空かせてそれでも働き続け、妹二人を短大まで進学させた。
自分は「学が無い」とコンプレックスに感じているようでも有りましたが、何より自分のやりたい事をやろうと思っても状況が許さなかった訳ですから仕方の無い事です。
そのかわり、向学心は極めて高くニュース報道番組やNHK教育の自然科学番組は欠かさず見て自分なりに勉強をしているようでした。若い頃、鉄工所勤めの最中に溶接の火花で片目の視力を失い、自動車の免許すら取らずじまい。
そうした父の影響でしょうか、出来る努力をせずに自分を蔑むだけで終えてしまう、、、なんて事が私の価値観にはまったく持って無かったりします。


時代が、世代が、社会情勢が違う。
その事と自分がぬるま湯につかり続けることは多分、違う次元の問題ではないかと思うんです。
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# by artnova | 2011-04-27 14:37

ブログらしくなんかない。。。

ついつい愚痴をこぼしてしまうのは自分が年をとった証拠。むむ。


 少なくとも特定の方向を見て自分の将来に関係する大学受験を志して学校外で活動をはじめようと
する受講生たちなのだから「もう少し前向きに考えませんか?」と愚痴まじりに思ったりする。
私自身にも記憶が有るが、過度な「努力」を「格好悪い事」としてしまう10代中盤の子供たち。その
価値観からか、はたまた競争ということから自分も周りも「無縁」を装う環境のせいなのか、人と比べられる事を極端に恐れる子供が増えているように感じています。
そのくせ、なまなかな「自己嫌悪」だけを長く長く引きずってしまい「一生懸命やる」ということと
「自分なりに悩んではいる」ということをイコールだと錯覚しているようでもあり、前に進む力は
5年ほど前と比べても随分弱くなったように感じ、心配になったりもします。
以前にも何処に書き記したように思いますが、アートノバの1年間のカリキュラムや年間課題数は以前と比べ大きく変化しました。端的に言えば「楽なカリキュラムしか組めない」状況です。
確かに誰でも入れる大学は増えはしました。それでも都内にあるいくつかの私大(いくつかの専攻)や芸大受験は難関であり続けています。に対して受験生の精神的な強さは年々無くなって来ている。
目標としたい志望校の受験レベルとの学科、実技への今現在の自分のポテンシャルとのギャップは大きくなる一方なのに、さらにそのギャップを埋める努力が出来ない、、、、となると、必然的に志望校のランクを下げない限り大学入試は突破できない事になります。

無いものねだり、、、という言葉が当てはまるかどうかわかりませんが、近年の高校生に接し、一番強く思うのは、「欲しいものが有るのに誰かが優しく与えてくれるのをいつまでもじっとこらえて待ち続ける。それを自分で手にする努力での苦痛よりも自虐的な何もしない自分を蔑んでいる苦痛の方を楽だと感じる」という事です。

好きな事として積極的な選択をし、美大受験に挑もうとする受験生ですらそうなのですから、特に将来の目標を自ら立てる事も、周りからそれを迫られる経験もない子供たちは自分の裁量で「何か大事な決定をし、自分で決めた事に責任を持つ」ということが上手く理解できていないのは当然の事のように思います。
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# by artnova | 2011-04-27 14:09